高尾山は、日本屈指の自然豊かな観光地であると同時に、長い歴史と深い信仰の背景を持つ霊場として知られています。その象徴とも言える高尾山薬王院は、奈良時代の行基菩薩による開山から始まり、多くの歴史的な出来事を経て現在に至ります。
この記事では、高尾山薬王院の歴史年表や高尾山と富士山信仰のつながり、さらに高尾山にまつわるクイズ形式の情報を通じて、この地域の歴史と文化的な背景を紐解いていきます。歴史に触れることで、訪れる際の楽しみもさらに深まるはずです。
ぜひ最後までお読みいただき、高尾山の魅力を再発見してください。
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英語での解説音源:History and Faith of Mount Takao
高尾山の歴史年表
高尾山薬王院のホームページを参考に、高尾山の歴史年表をまとめてみました。
時代 | 年 | 出来事 |
---|---|---|
奈良時代 | 744年 | 行基菩薩により開山。薬師如来を本尊とする。 |
南北朝時代 | 1375年 | 俊源大徳が高尾山に来山。不動明王八千枚護摩供秘法を修し、飯縄大権現を感得。中興の祖となる。 |
室町時代 | 14世紀後半 | 俊源大徳の没後、高尾山薬王院は醍醐山無量寿院の末寺となる。 |
戦国時代 | 1532年〜1554年 (天文年間) | 小田原の後北条氏、特に氏康が高尾山を深く信仰する。 |
1550年代 | 富士山への参拝が困難になり、氏康が高尾山に富士浅間大菩薩を勧請。 | |
1560年 | 氏康が薬師堂修理のための寺領を寄進。 | |
1569年 | 北条氏康・氏照親子が武田信玄と戦い、勝利。 | |
1570年 | 氏康・氏照親子が戦勝御礼として「唐銅製五重の塔」を寄進。 | |
1575年 | 八王子城主・北条氏照が寺領を寄進し、高尾山領地を確定。同年、氏照が御本尊開帳時の山内での違法行為を規制する制札を発布。 | |
1590年 | 豊臣秀吉の小田原攻撃により、八王子城落城、北条氏滅亡。 | |
江戸時代 | 1590年 | 徳川家康が関東に入国、江戸城に入城。八王子城は廃城となる。 |
1648年 | 徳川幕府より朱印状が交付され、境内山林七十五石が安堵される。 | |
17世紀後半 | 江戸の町が発展し、高尾山への参拝者が増加。 | |
1688年〜1704年 (元禄年間) | 第十世堯秀が薬師堂、大日堂、護摩堂、仁王門などを建立。 | |
1702年 | 第十三世賢俊のもと、高尾山薬王院が「智山常法談林」として学法灌頂道場となる。 | |
1729年〜1730年 | 第十六世秀憲によって飯縄権現堂が建立。 | |
1801年〜1818年 (文化年間) | 第十八世秀神の代に御本堂、奥之院、黒門などが建立。 | |
明治時代 | 1868年 | 江戸幕府による大政奉還。 |
1871年 | 神仏分離令により、高尾山薬王院は二之鳥居と一之鳥居を破却。 | |
1889年 | 新甲州街道(国道20号線)が開通。 |
その後、近代国家建設の中で、高尾山薬王院は密教寺院としての伝統を守りながら、大衆の平等抜済、諸願成就の祈願道場として、現在に至ります。
薬王院の歴史に関わる登場人物
高尾山薬王院は、多くの歴史的な人物によって支えられてきました。以下では、高尾山と深い関わりを持つ僧侶、武将、代官など、さまざまな人物を紹介します。これらの人物は、それぞれの時代背景の中で薬王院の発展や保護、そして信仰の伝播に寄与しました。
高尾山薬王院に関わる人物一覧表
人物名 | 職業/身分 | 高尾山との関係 | 補足 |
---|---|---|---|
行基菩薩 | 僧侶 | 奈良時代の僧。高尾山薬王院の開山とされる。社会事業に尽力し、多くの寺院を開いた。 | 薬師如来を本尊とする寺院の多くは行基が開山とされている |
聖寶理源大師 | 僧侶 | 平安時代の僧。醍醐寺の開祖。 | 醍醐山無量寿院の俊盛を師僧としていた |
俊源大徳 | 僧侶 | 南北朝時代の僧。高尾山薬王院の中興の祖。不動明王八千枚護摩供秘法を修し、飯縄大権現を感得した。 | 高尾山薬王院は俊源以来、醍醐寺の法流を汲む |
後北条氏康 | 武将 | 戦国時代の武将。小田原の後北条氏の当主。高尾山を深く信仰し、富士浅間大菩薩を勧請した。 | 山内の薬師堂の修理資金として寺領地を寄進した |
後北条氏照 | 武将 | 戦国時代の武将。氏康の二男。八王子城主。高尾山の外護に尽力した。 | 椚田に寺領地を寄進し、山内の違法行為を規制した |
徳川家康 | 将軍 | 関東入国後、大久保長安を通じて後北条氏の政策を引き継ぐ形で高尾山周辺を支配した。 | |
大久保長安 | 代官頭 | 高尾山の山林保護を行った。 | 徳川家康の関東支配の基礎を固めた人物の一人 |
堯秀 | 僧侶 | 江戸時代初期の僧。高尾山薬王院第十世。薬師堂、大日堂、護摩堂、仁王門などを建立。 | |
賢俊 | 僧侶 | 江戸時代初期の僧。高尾山薬王院第十三世。「智山常法談林」を開き、高尾山を学法灌頂道場とした。 | |
徳川吉宗 | 将軍 | 高尾山飯縄大権現の加護を期待し、「八千枚護摩」を依頼した。 | 享保の改革を推進した |
秀憲 | 僧侶 | 江戸時代中期の僧。高尾山薬王院第十六世。飯縄権現堂を建立した。 | |
秀興 | 僧侶 | 江戸時代中期の僧。高尾山薬王院第十七世。飯縄権現堂の拝殿、弊殿を再建した。 | |
秀神 | 僧侶 | 江戸時代中期の僧。高尾山薬王院第十八世。御本堂、奥之院、黒門、高尾山一之華表、高尾山二之華表などを建立した。 | |
油屋清八 | 豪商 | 江戸時代後期の豪商。権現堂を再建し、北条氏康寄進の唐銅製五重の塔を再建した。 | 富士信仰に篤かったとされる |
江川太郎左衛門 | 代官 | 江戸時代後期の代官。小山地先の相模野開発を許可し、完成を感謝して高尾山に「江川杉」を奉納した。 | 天領伊豆韮山代官などを務めた |
高尾秀融 | 僧侶 | 明治時代の僧。高尾山薬王院第二十三世。神仏分離令に対応し、二之鳥居と一之鳥居を破却した。 | |
長谷川角行 | 修験者 | 江戸時代初期の修験者。富士講の開祖。 | 富士講は後に食行身禄によって爆発的に広まった |
村上光晴 | 富士講行者 | 江戸時代中期の富士講行者。諸大名や豪商を檀越とし、北口浅間神社の社殿再建に尽力した。 | |
食行身禄 | 富士講行者 | 江戸時代中期の富士講行者。享保の飢饉を憂い、富士山で断食行を行い、多くの信徒を集めた。 | 庶民の立場から武家政治を批判し、四民平等の思想を唱えた |
高尾山薬王院の開山から中興までの歴史
高尾山薬王院は、1250年以上続く歴史を持つ寺院です。その歴史は、開山から中興、そして近世、近代に至るまで、様々な変遷を遂げてきました。
開山
高尾山薬王院は、行基菩薩によって開山されたと伝えられています。 行基菩薩は、法相宗の僧侶で、数多くの社会事業を興し、人々の救済に尽力したことから、「菩薩」と崇められています。 行基菩薩は、全国各地に寺院を建立しており、その多くが薬師如来を本尊としています。 これは、行基菩薩の慈悲行が、当時の人々の心の支えになっていたこと、また、行基菩薩が人材を登用して職能集団を形成し、人々の苦しみを救済したことなどが理由と考えられます。
中興
南北朝時代後期、高尾山薬王院は、俊源大徳によって中興されました。 俊源大徳は、京都の醍醐山無量寿院の出身で、山城国の清滝権現を本尊としていました。 俊源大徳は、高尾山で厳しい修行を行い、飯縄大権現を感得し、高尾山薬王院を再興しました。 俊源大徳の行った修行は、「不動明王八千枚護摩供」と呼ばれるもので、非常に厳しい修行であったことが、史料から読み取れます。 この「八千枚護摩供」は、高尾山薬王院の重要な法流の一つとなり、江戸時代には紀州徳川家の依頼によって行われていたことも分かっています。
高尾山薬王院の開山から中興までの歴史は、行基菩薩の慈悲行と俊源大徳の厳しい修行によって築かれたものでした。これらの歴史は、高尾山薬王院が今日まで多くの人々の信仰を集めている礎となっています。
高尾山薬王院における「八千枚護摩供」の意義と、その歴史的背景
高尾山薬王院における「八千枚護摩供」は、単なる宗教儀式を超えて、寺院の歴史、信仰、そして地域社会との繋がりを深く反映する重要な法流です。その意義と歴史的背景を考察すると、以下の点が浮かび上がります。
1. 「八千枚護摩供」の意義: 霊験と験力、そして人々への慈悲
「八千枚護摩供」は、その名の通り、護摩壇で大量の乳木を焚き上げ、不動明王の真言を唱える厳しい修行です。この修行を通じて、行者は霊験、すなわち、仏や神からの加護や力を得ることができると信じられていました。特に高尾山では、中興の祖である俊源大徳がこの修行によって飯縄大権現を感得したという伝承があり、「八千枚護摩供」は高尾山薬王院の霊験の根源とされています。
また、「立印軌」に記されているように、この修行を達成した者は「発言咸く意に随い、攝召する所即ち至る。験法の成ぜんとする者は、能く樹枝を摧折し、能く飛鳥を堕落し、河水を能く竭せしめ、陂池を枯渇せしめ、能く水を逆流せしめ、能く山を移し及び動ぜしめ、諸の外道の呪術力を制止して行わざらしむ」という験力、すなわち、超自然的な力を得ることができるとされています。
しかし、「八千枚護摩供」は単に超自然的な力を求めるためのものではありませんでした。行基菩薩の教えにも見られるように、高尾山薬王院は常に人々の救済、社会への貢献を重視してきました。俊源大徳もまた、人々の苦しみを救うためにこの厳しい修行に挑んだと考えられます。「八千枚護摩供」は、行者の精神的な向上、そして人々への慈悲の実践という側面も持ち合わせていたと言えるでしょう。
2. 歴史的背景: 中興から近世、そして現代へ
「八千枚護摩供」は、俊源大徳による中興以降、高尾山薬王院の重要な法流として受け継がれてきました。江戸時代には、幕府の権力者である紀州徳川家からの依頼を受けて「八千枚護摩供」が修されていたことが、「紀州家文書」から明らかになっています。これは、当時の社会不安や政治的な思惑も背景にあったと考えられますが、同時に高尾山薬王院の霊験と験力が広く認められていたことの証左と言えるでしょう。
時代が下るにつれて、「八千枚護摩供」は、その形式や意義も変化していった可能性があります。現代においても高尾山薬王院では護摩祈祷が行われていますが、かつてのような大規模な「八千枚護摩供」は行われていません。 しかし、その精神性、すなわち、厳しい修行を通じて精神を鍛錬し、人々のために祈るという姿勢は、現代の護摩祈祷にも脈々と受け継がれていると言えるでしょう。
まとめ
高尾山薬王院における「八千枚護摩供」は、単なる宗教儀式ではなく、寺院の長い歴史の中で育まれた、霊験と験力、そして人々への慈悲を体現する重要な法流です。その歴史的背景を理解することで、現代における高尾山薬王院の信仰と活動の意義をより深く理解することができるのではないでしょうか。
戦国時代から江戸時代:高尾山薬王院と権力者との関係の変化
戦国時代から江戸時代にかけて、高尾山薬王院は、時の権力者との関係を深めながら、その勢力を拡大していきました。その関係は、時代や権力者によって変化が見られます。具体的には、戦国時代は主に寺領の寄進や保護を受ける関係でしたが、江戸時代になると、祈祷や寺院再建の支援など、より多岐にわたる関係へと発展しました。
戦国時代:後北条氏による保護と信仰
戦国時代、高尾山薬王院は、関東地方に勢力を誇った後北条氏と密接な関係を築いていました。
- 氏康による寺領の寄進と保護: 永禄三年(1560年)、後北条氏康は、薬師堂の修理費用として寺領を寄進しました。また、戦乱の際には、高尾山の霊域を保護するために、軍勢の乱暴を禁じる制札を出しています。これは、氏康が高尾山薬王院を信仰していただけでなく、戦略的な要衝として重要視していたことを示しています。
- 氏照による寺領の確定と山林保護: 氏康の二男である氏照も、父に倣い高尾山薬王院を保護しました。氏照は、氏康が寄進した寺領地を確定させ、後の江戸幕府にも引き継がれる基盤を築きました。また、天正三年(1575年)には山内の違法行為を規制する制札を出し、さらに天正十八年(1590年)には、豊臣秀吉の小田原攻撃に備えて、八王子城の防備のために高尾山の山林を保護する制札を出しています。
このように、後北条氏は、信仰と戦略的な重要性から、高尾山薬王院を保護し、その発展を支援しました。
江戸時代:徳川幕府による朱印地安堵と紀州家からの支援
江戸時代に入ると、高尾山薬王院は徳川幕府から朱印地を与えられ、その保護を受けました。
- 朱印地安堵と山林所有の承認: 豊臣氏の滅亡後、徳川家康が関東に入ると、後北条氏から寄進された寺領は一旦没収されましたが、後に朱印状が下付され、境内山林75石が安堵されました。これは、幕府が、高尾山薬王院が持つ宗教的な権威と、広大な山林経営による経済力を認めた結果と言えるでしょう。
- 紀州家による祈祷依頼と寄進: 江戸時代中期には、八代将軍吉宗以降、紀州徳川家からの信仰を集めました。特に吉宗は、享保の改革を推進するにあたって、高尾山御本尊飯縄大権現の加護を期待し、「八千枚護摩」の大法を依頼しました。また、竹姫や将軍家北の政所一位大夫人からも、様々な品々が奉納されています。
このように、江戸時代には、徳川幕府による保護と、紀州徳川家からの信仰という、新たな権力者との関係が構築されました。
まとめ
戦国時代から江戸時代にかけて、高尾山薬王院と権力者との関係は、それぞれの時代の政治状況や権力者の思惑を反映しながら変化してきました。しかし、一貫して言えることは、高尾山薬王院が、時の権力者にとって、無視できない存在であったということです。それは、高尾山薬王院が、宗教的な権威と経済力、そして民衆からの信仰を集めていたからに他なりません。
富士山信仰と高尾山薬王院の関係性について
高尾山薬王院と富士山信仰は、一見異なる信仰対象のように思えますが、歴史的に深い関わりを持っており、その関係性は高尾山薬王院の発展に大きく寄与してきました。
富士信仰の高尾山への到来
高尾山薬王院と富士山信仰の結びつきは、戦国時代、後北条氏康によって築かれました。天文年間(1532~1554年)に氏康は、高尾山に富士浅間大菩薩を勧請し、これが現在の奥之院裏にある富士浅間社の起源となっています。
この勧請に伴い、富士吉田の禰宜(御師)たちが高尾山に移り住んだとされています。彼らは、高尾山修験の先達集団と融合し、高尾山参詣と富士詣でを広めていったと考えられています。
江戸時代における富士講と高尾山の隆盛
江戸時代に入ると、庶民の間で富士講が隆盛し、高尾山は富士山への「前立ち」として信仰を集めるようになりました。
富士講は、富士山への登拝を修行とし、現世利益や死後の救済を求める信仰集団です。特に、食行身禄による富士講の普及が、高尾山にも大きな影響を与えました。
- 身禄が提唱した富士山道中のルートには、高尾山が組み込まれていました。そのため、多くの富士講信者が高尾山に立ち寄り、参拝を行ったと考えられます。
- 高尾山には「身禄茶屋」と呼ばれる茶屋があり、身禄の木像などが安置されていました。これは、高尾山と身禄、そして富士講との密接な関係を示す具体的な例と言えるでしょう。
- 昭和初期まで、多くの富士道者が高尾山に登拝していたことが伝えられています。
このように、江戸時代における高尾山の隆盛は、富士山信仰、特に富士講の隆盛と密接に関係していたと言えるでしょう。
明治維新以降
明治維新後、神仏分離令や修験道廃止令によって、高尾山薬王院は大きな変革を迫られました。しかし、富士山信仰との関係は依然として残り、現在でも高尾山修験の修行団体「高尾山秀峰会」は、富士山登拝修行を年中行事として行っています。
まとめ
高尾山薬王院と富士山信仰の関係は、戦国時代の後北条氏による富士浅間大菩薩の勧請に始まり、江戸時代の富士講の隆盛を通じて深まりました。高尾山は、富士山への「前立ち」として、多くの富士講信者の参拝地となり、その結果、経済的な発展にも繋がりました。
現代においても、高尾山薬王院と富士山信仰の結びつきは、登拝修行などを通して受け継がれています。これは、高尾山が、単なる山岳信仰の対象ではなく、多様な信仰が融合し、長い歴史の中で人々の心に寄り添ってきた存在であることを示しています。
明治維新以降の高尾山薬王院:近代日本社会における役割の変遷
明治維新以降、高尾山薬王院は、近代日本の社会変革の荒波を受けながらも、その役割を柔軟に変化させ、人々の信仰を集め続けてきました。
1. 神仏分離令への対応: 伝統と近代化のバランス
明治維新は、高尾山薬王院にとって大きな転換期となりました。特に明治政府による神仏分離令は、仏教寺院の存在意義を根本から揺るがすものでした。しかし、当時の住職であった秀融は、いち早くこの機運を察知し、山麓と山上にあった鳥居を一夜にして撤去するなど、迅速に対応しました。これは、時代の変化を受け入れつつも、高尾山薬王院としての伝統を守ろうとする姿勢の表れと言えるでしょう。
2. 寺領喪失と新たな寺院経営: 経済的自立と信仰の維持
明治政府は、寺領を上地し、高尾山薬王院の広大な土地は国有林となりました。このため、従来のような寺領収入に依存する経営は不可能となり、高尾山薬王院は経済的な自立を迫られました。 しかし、高尾山薬王院は、その歴史と伝統、そして人々からの信仰を基盤として、新たな寺院経営を模索していきました。
3. 教学の転換と大衆への訴求: 智山派への転派と社会貢献
明治維新以前、高尾山薬王院は、京都醍醐山無量寿院の末寺として、真言密教の教えを伝えてきました。しかし、明治十二年の宗教団体令により、智積院の末寺に転派しました。これは、近代化の流れの中で、学問と論議を重視する智山派の教学を選択した結果と考えられます。
また、高尾山薬王院は、大衆の平等抜済、諸願成就の祈願道場として、人々の生活に寄り添う活動を展開しました。これは、近代社会においても、人々の心の拠り所としての役割を果たそうとする姿勢の表れと言えるでしょう。
4. 富士山信仰との継続: 伝統的な信仰の継承
明治維新後も、高尾山薬王院と富士山信仰の結びつきは保たれ、現在に至るまで、富士山登拝修行などが行われています。これは、高尾山薬王院が、単なる山岳信仰の対象ではなく、多様な信仰を包含し、人々の心に根差した存在であることを示しています。
5. 近代社会における役割: 精神的な支柱と地域社会への貢献
高尾山薬王院は、近代日本の社会の中で、人々の精神的な支柱としての役割を果たすと同時に、地域社会への貢献も積極的に行ってきました。
- 自然保護活動への参加
- 地域の文化行事への協力
- 災害時の支援活動
これらの活動を通して、高尾山薬王院は、地域社会に不可欠な存在として、その地位を確立してきました。
まとめ
明治維新以降の高尾山薬王院は、近代化の波を受けながらも、伝統を守り、新たな役割を積極的に担うことで、現代社会においても人々の信仰を集め続けています。その歴史は、変化を恐れずに、常に時代の要請に応えようとする寺院の姿を示す好例と言えるでしょう。
高尾山の歴史クイズ
高尾山薬王院のホームページを参考に、高尾山の歴史クイズを作ってみました。
高尾山の歴史
- Q高尾山を開山したのは誰ですか?
- A
行基菩薩と言われています。行基菩薩は、華厳菩薩行を実践し、橋や池の建設、施薬院や施粥庵の開設など、多くの社会事業を行い、人々を救済した菩薩として崇められています。
- Q高尾山薬王院の中興の祖は誰ですか?
- A
俊源大徳です。南北朝後期、京都の醍醐山から高尾山に来た俊源大徳は、山中の滝で修行し、飯縄大権現を感得しました。
- Q高尾山薬王院は、どの宗派の寺院ですか?
- A
真言宗智山派です。
- Q俊源大徳が飯縄大権現を感得した際に用いた秘法は何ですか?
- A
不動明王八千枚護摩供という秘法です。これは、厳しい修行を必要とする大法で、高尾山ではひとつの法流として伝えられています。
- Q室町時代末期から戦国時代にかけて、高尾山はどの武将から信仰を集めましたか?
- A
特に小田原の後北条氏の尊信は篤いものがありました。北条氏康は、天文年間に富士山信仰と高尾山を結びつけ、富士浅間大菩薩を高尾山に勧請しました。
- Q北条氏康は、高尾山にどのような貢献をしましたか?
- A
山内の薬師堂の修理資金として寺領地を寄進しました。また、戦火から高尾山を守るために、軍勢の乱暴を禁じる制札を出しました。
- Q北条氏照は、高尾山にどのような貢献をしましたか?
- A
父である氏康の信仰を受け継ぎ、高尾山の外護に力を尽くしました。寺領地を確定し、山内の違法行為を規制する制札を出しました。また、豊臣秀吉の小田原攻撃が切迫した際には、高尾山の山林を保護して八王子城の防備を図りました。
- Q江戸時代、高尾山は誰から篤い外護を受けましたか?
- A
紀州徳川家から篤い外護を受けました。特に八代将軍吉宗は、高尾山御本尊飯縄大権現の加護を期待し、「八千枚護摩」の大法を依頼しました。
- Q明治維新後、高尾山薬王院はどのような変化を経験しましたか?
- A
神仏分離令により、山麓にあった鳥居が撤去され、寺領の大部分が上地されました。また、宗派も醍醐山無量寿院から智積院へと移りました
高尾山と富士山信仰
- Q高尾山と富士山信仰はどのように結びついていますか?
- A
天文年間に北条氏康によって富士浅間大菩薩が高尾山に勧請されたことがきっかけです。現在、奥之院不動堂の裏にある富士浅間社がそれです。
- Q江戸時代の富士講では、高尾山はどのような役割を果たしましたか?
- A
富士山の「前立ち」とされ、富士登山をする人々は高尾山に参拝してから富士山に向かうことが多かったようです。
- Q富士講の開祖は誰ですか?
- A
角行東覚です。長谷川武邦という修験行者が、富士山麓で修行し、「おふせぎ」という守札や「御身抜」という掛け軸を信徒に与える呪術を行っていました。
- Q食行身禄は、どのような人物ですか?
- A
江戸時代の富士講の行者で、庶民救済を願い富士山で断食行を行い入滅しました。彼の思想は、武家政治を批判し、四民平等の思想を謳ったもので、多くの庶民の心を掴みました。
その他
- Q「江川杉」とは何ですか?
- A
江戸時代、天領伊豆韮山代官などを務めた江川太郎左衛門が、高尾山に奉納した杉の木です。現在も高尾山の山稜一帯に広がっています。
- Q高尾山には、どのような修行団体がありますか?
- A
高尾山修験道の修行団体「高尾山秀峰会」があります。この団体は、「富士山登拝修行」を年中行事として行っています。
用語集
- 行基菩薩: 奈良時代の僧侶。社会事業に尽力し、多くの寺院を開山したとされる。
- 俊源大徳: 高尾山薬王院の中興の祖。飯縄大権現を感得したとされる。
- 醍醐山: 京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。
- 八千枚護摩供: 不動明王を本尊とする護摩を焚き、真言を唱える厳しい修行。
- 法流: 仏教の教えが師から弟子へと受け継がれていく流れ。
- 後北条氏: 戦国時代に Kanto 地方を支配した戦国大名。
- 寺領: 寺院の運営を維持するために与えられた土地。
- 朱印状: 寺院や神社に土地や権利を与えることを認めた文書。
- 富士講: 富士山を信仰対象とする民間信仰。
- 神仏分離令: 明治政府が公布した、神道と仏教を分離させる政策。
- 修験道廃止令: 明治政府が公布した、修験道という山岳信仰を禁止する政策。