高尾山を訪れる多くの人々が、その豊かな自然や美しい景色に心惹かれます。しかし、この山の真の魅力は、その景観の奥深くに流れる1300年もの長い歴史にあります。高尾山は、単なる行楽地ではなく、時代と共にその役割を変え、人々の祈りや信仰を集めてきた神聖な場所なのです。

この記事では、天皇の勅命によって開かれた奈良時代から、天狗信仰が花開いた中世、そして庶民に愛された江戸時代まで、高尾山が歩んできた壮大な歴史の物語を紐解いていきます。
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すべての始まりは奈良時代。天皇の勅命によって開かれた聖地

高尾山の歴史は、今から約1300年前の奈良時代に遡ります。744年(天平16年)、当時の天皇であった聖武天皇が、国中の人々の病気平癒と安寧を願い、高僧・行基(ぎょうき)に命じてお寺を建てるよう勅命を下しました。これが、高尾山の中腹に鎮座する「高尾山薬王院」の始まりです。
薬師如来を祀る癒しの寺として
開山当初、ご本尊は病を癒し、心身の苦しみから人々を救う「薬師如来」でした。そのご本尊にちなみ、お寺は「薬王院」と名付けられました。東国(関東地方)の仏教の中心地として、また国家鎮護の道場として、高尾山はその歴史の第一歩を歩み始めたのです。
この歴史の中心地である薬王院は、今も多くの参拝者で賑わっています。
施設名 | 高尾山薬王院有喜寺 |
住所 | 東京都八王子市高尾町2177 |
電話番号 | 042-661-1115 |
公式サイト | https://www.takaosan.or.jp/ |
中世の変革。修験道の聖地、そして天狗の山へ

時代が下り、南北朝時代の永和年間(1375年)に、薬王院は大きな変革期を迎えます。京都から来た高僧・俊源大徳(しゅんげんだいとく)が入山し、癒しの寺であった薬王院を、山に籠り厳しい修行を行う「修験道(しゅげんどう)」の道場として再興したのです。
この時、ご本尊も薬師如来から、修験道の神である「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」へと変わりました。そして、この飯縄大権現のお使い(眷属)とされているのが、高尾山のシンボルである「天狗」なのです。
天狗信仰の始まり
飯縄大権現は、不動明王、歓喜天、荼枳尼天、弁財天、そして烏天狗が合体したお姿とされ、あらゆる災厄を祓い、願いを叶える絶大な力を持つと信じられています。そのお使いである天狗は、神通力で人々を導き、救う存在として崇められるようになりました。山で修行する山伏の姿が、超人的な力を持つ天狗のイメージと重なっていったとも言われています。
こうして高尾山は、修験道の聖地として、そして天狗が守護する霊山として、新たな信仰を集めることになりました。
江戸時代、庶民のレジャーとして愛された富士講と高尾山参拝

戦乱の世が終わり、平和な江戸時代が訪れると、高尾山の性格は再び変化します。それまでは修行者や武士の山でしたが、庶民の間で伊勢神宮や金刀比羅宮への「お参り」がブームになった流れを受け、富士講の一環として高尾山参拝も盛んに行われるようになりました。
信仰と行楽の融合
富士山を目指す富士講の参拝者たちは、しばしば高尾山に立ち寄り参拝を行いました。富士山への長い道のりの途中で、高尾山は重要な祈りの場所として位置づけられていたのです。これは、ご利益を願う「信仰」の対象であると同時に、美しい景色や自然を楽しむ「行楽(レジャー)」の対象でもありました。麓から中腹にかけては茶屋が立ち並び、多くの人々で賑わいました。
この時代に「信仰の山」と「人々の憩いの山」という二つの顔が確立され、それが今日の高尾山の姿の礎となっています。
まとめ
高尾山の歴史は、一つの壮大な物語です。
- 奈良時代: 天皇の命により、国家安寧を祈る癒しの寺として誕生。
- 中世: 修験道の道場へと姿を変え、天狗信仰が始まる。
- 江戸時代: 庶民の信仰と行楽の地として絶大な人気を博す。

普段何気なく歩いている登山道や、参拝している薬王院の境内には、こうした1300年分の人々の想いや物語が幾重にも積み重なっています。この歴史を知ることで、あなたの一歩一歩が、過去と現在を繋ぐ特別な時間となるはずです。